もしも、あなたが孤独を感じているなら

悩み

昨今、日本は「高齢化社会」などと言われますが、去年の統計によると、65歳以上の方が人口の28.8%を占めるそうで、まもなく三人に一人がお年寄りという時代がやってくるそうです。(*内閣府令和3年版高齢社会白書参照)

さらに、その65歳以上の49.5%、約半数が独り暮らしをしているのだそうです。いわゆる「独居老人」というやつです。

熟年離婚で独り身になった方や、伴侶に先立たれた方、また未婚のまま一人で過ごされている方など、その理由は様々でしょう。

以前はお見合いや仲人さんの紹介などで結婚相手を見つけることも多かったですが、現在はそういう風習もめっきり少なくなりました。そのせいかどうかは分かりませんが、今では生涯一度も結婚をされない方が、四人に一人いらっしゃるそうで、しかも、年々増え続けているのだそうです。

そんな現代では、つね日頃から「孤独」を感じておられる方も増えているそうです。

「なんで自分だけ独りなんだ」「友人との付き合いもなくなった」「兄弟とも疎遠だ」「頼れる人もいない」、「孤独」というと、どうしてもネガティブなイメージになりがちです。

(ちなみにうちには家内がおりますが、私が「ただいま~」と帰った時も、「いってきま~す」と出かける時も、うんともすんとも言わない時があります。これもある意味「孤独」です。冗談はさておき…)

それでも若いうちはまだいいのですが、60代70代ともなれば、この先、病気の心配、介護の心配、さらには孤独死の心配など悩みが尽きないものです。

では、そんな「孤独」を感じながら、私たちは一体どのように生きて行くべきなのでしょうか?まず、こんな風に考えてみましょう。

あなたが「独り」だと感じたり、「頼る人もいない」と思ったりするのは真実でしょうか?実際に起きていることなのか、あなたの頭の中で勝手にこうだと思い込んでいるだけなのか、見極めてみてはいかがでしょう?

例えば、あなたが何かしらで誰にも相談できずに悩んでいるとします。

もし、「相談に乗って欲しい」と助けを求めれば、誰かが手を差し伸べてくれるかもしれません。しかし、実際にはそうはせず、ただただ「自分には相談に乗ってくれる人なんていない」「独りで解決するしかない」と思っているだけかもしれません。

また、逆の立場で「あの人は困っているから助けを差し伸べた方がいいのだろうか?でも、余計なお節介かもしれないから、助けを求められるまで黙っていよう」と、思う方もいるかもしれません。

この場合、どちらも何ひとつ実際の行動は起こしていません。ただただお互いに頭の中で真実かどうかも分からないことを勝手に思い込み、尻込みしているだけなのです。

人間は頭でいろいろと考える動物です。だから、あれこれと実際には起きていないことまであたかも真実かのように思い描いてしまいます。そんな間違った思いをめぐらすことを、仏教では「妄想(もうぞう)」と言います。お釈迦様は、不安や悩みは自分自身の「妄想」が作り出したものだとおっしゃっておられます。

今あなたの感じている「孤独」はどうでしょうか、「妄想」ではないでしょうか?「友達がいない」と思うなら、一度あなたの携帯電話やスマートフォンを見てみましょう、友達の電話番号や連絡先はありませんか?「いつも孤独」と感じるなら、同様に写真データを見てみましょう、誰かと一緒にどこかに行った思い出の一枚はありませんか?

いくら疎遠になっていても、久しぶりの連絡を喜んでくれる方もいらっしゃいます。

それでも、「自分は間違いなく孤独だ」と感じるなら、お釈迦様は、次のような言葉も残しています。

「犀の角の如く、ただ独り歩め」

これは仏教の修行者へ向けての言葉ですが、お釈迦様の生まれたインドには、一本角のサイ(インドサイ)がおり、その歩く姿は孤高の勇者のように堂々とし、自身で道を切り開くかのように見えたことから、「犀の角」が仏教の修行者の象徴になったのだそう。

つまり、お釈迦様のこの言葉は、「サイの一本角のように、正しい道をただ独りまっすぐ歩いていけ」という意味で、仏教では「孤独」であることを決して悪い事とは捉えていないのです。実際、当時のお寺は人里離れた山の中などに建てられたことが多く、俗世を離れ、様々な欲求を断ち切り、修行に打ち込むという意図があったのだそう。

ですから、「孤独」という状況を受け止め、この機会に何かに打ち込んでみたり、仏教を学ぶなどして、心を成長させるのも良いかも知れません。

書籍「極上の孤独」の著者である下重暁子さんはこんな言葉を残しています。

“孤独とは、自分自身ときちんと向き合うことであり、「個」を大事にして生きることでもあります。自分が本当は何を欲し、どんな人間なのか、自分を一番知らないのは自分ではないでしょうか。「父」とか「妻」とか「社長」などの役割は、「個」の上に乗っているもの。老後は特に、そういう役割を外した「個」で生きなければならないのです。”

今まで何らかの組織やコミュニティーに属して来られた方は、「孤独」になることによって、ようやく「個」として、ありのままに生きる事になります。それはある意味、誰に縛られることもなく、人間関係にストレスを感じることもない環境で、これまで見つめて来なかった自分自身をより深く知ることが出来るチャンスなのだと。

確かに、仏教を学ぶにしろ、自分のやりたいことをするにしろ、「追求する」にはこれ以上の条件はないかもしれません。そう思うと「孤独」もいいものに思えてきませんか?

ただ、今はTwitterやインスタグラムなどのSNS(ソーシャルネットワーキングサービス)が発達した時代ですから、その気になればいつだって同じような境遇の仲間だって見つかります。同じ目的の人々で集まり、共に歩んでいくことも可能です。人生100年と言われる時代、まだまだ時間はたっぷりあります。その時間を有意義に過ごすために、皆さんもまず何か1つやってみたいことを始めてみるのはいかがでしょうか?

「でも、今から始めるのは遅いんじゃ?」

いえいえ、そんなことを気にする必要はないのです。だって、それはあなたの「妄想」に過ぎないのですから。

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